渥美古窯

Atsumi Old Kilns

渥美古窯


 
平安時代末期から鎌倉時代初頭に掛けて渥美半島には、伊勢神宮の神領や三河国の国衛領が置かれ、神宮の神官や中央の貴族の需要に応える為、陶器の生産が盛んに行われていました。これらは渥美古窯と呼ばれ、豊橋市南西部から渥美半島の先端に掛けて、100群600基を超える窯が築かれ、日常生活品や宗教的色彩の強い製品が生産されました。

渥美窯で作られた陶器は、壷、甕、山茶碗、片口鉢、小皿などがあります。国宝の灰釉秋草文壷などの特注品も生み出しました。平安時代末の1181年、東大寺が焼失し、鎌倉時代に再建されるのですが、その瓦を焼いていたのが、渥美半島の先端にある国史跡・伊良湖東大寺瓦窯跡です。渥美半島の先端部の窯跡では、宗教に関連する製品、経筒外容器、陶製五輪塔、蔵骨器等々、渥美窯独特の優れた製品が作られており、その関係で東大寺からの瓦の発注があったものと思われます。

渥美焼の特徴は、砂質粘土で成形し、焼き上がりは灰色、黒褐色で瀬戸、常滑焼とは違い長石の吹き出しはありません。器面に文字や鳥、植物を描き施された文様を刻線文、刻画文と呼び、当時には珍しく肩の辺りにだけ灰釉を刷毛で塗り焼成した特別注文品が多く焼かれました。完成した壷や甕は船に積み込んで太平洋側を中心に海路で奥州平泉や伊勢、九州各地へ運ばれました。

当時の渥美半島は陶器の一大生産地で、奥州平泉の藤原氏が最大の発注元でした。源頼朝による鎌倉幕府の成立により、上質な瀬戸の陶器が好まれるようになり、渥美窯は衰退し姿を消してしまいました。その後、各地で発見された産地不明の謎の「黒い壷」は、1960年頃に豊川用水路工事に伴い窯跡が発見される事で、渥美焼と判明しました。

渥美焼が知られる様になり、まだ歴史も浅く謎だらけの渥美古窯ですが、莫大な量の製品を生産していたのにも関わらず、山茶碗で使用していた白色粘土は一体何処にあるのか、成形・焼成方法も分からない事が多くあります。その謎解きが私のこれからの仕事でもあり、平安時代末期、鎌倉時代に稼働していた窯に出来るだけ近い窯を作り、渥美古窯を復元する事を大きな次の目標としております。そして私の住んでいる地域の渥美焼の素晴らしさを少しでも多くの方に知って頂く事も、私の仕事と思っております。
 
 

 
 
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